2018年 西郷どん

【西郷どん】糸どんがご懐妊!実際の西郷糸子と子供はどんな人物?

更新日:

大河ドラマ「西郷どん」の第33回。

吉之助の三度目の妻・糸が身ごもったという報告に、テレビの前で思わずうれし涙を流した方もおられることでしょう^^

この記事では、西郷糸子が実際にどんな女性だったのか?
また、西郷隆盛と糸の間に生まれた子供たちとはどのような人物だったのかをまとめています。

これを知ると、糸どんが女性としてだけでなく、人としてどれほど魅力的な人物だったかわかりますよ!

 

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実際の“糸どん”はこんな人

西郷糸子(引用:Wikipedia)

 

西郷隆盛の3番目の妻となったのが西郷糸子(岩山糸子)です。

糸子が生まれたのは1843年。
薩摩藩士・岩山八郎太直温と妻・エイの二女として生まれました。

 

西郷隆盛は1827年生まれ。
というわけで、ふたりの年の差は16歳という年の差カップルなのです。

ドラマの初回には、西郷隆盛の少年時代に糸が男装して祭りに参加するという場面がありました。
この部分はフィクションであり、実際の出来事ではありません。

そもそも西郷の少年期に、糸子はまだ生まれてなかったというわけです^^;

 

糸にとって西郷との結婚は二度目の結婚です。
一度目に嫁いだのは名家・海老原家でした。
ドラマの中では糸子に子供が授からなかったことが離縁の原因だとのことでしたが、はっきりとしたことはわかっていません。

 

西郷吉之助との出会い

ドラマの中で、「子供ん頃から好いちょったで・・・」という糸どんのセリフがありましたね。
しかし実際には、長年の恋を実らせ・・・といったロマンスは残念ながらないのです。

一説には、38歳になり嫁をめとることもなく各地を駆け回り超多忙だった西郷に、有川矢九郎が妻の従妹という触れ込みで糸子を連れてきたといわれています。

糸子も一度は離縁しているので、有川矢九郎が積極的に働きかけたのかもしれませんね。

糸子がどのような女性であったかを知ると、有川にとって糸子が、薩摩の英雄・西郷吉之助にふさわしく是非にも引き合わせたい女性であったというのもうなずけます。

 

まんざらでもない西郷に、勢いのまま結婚させてしまったとも言われています。

西郷は自分が多忙なことから、最初は結婚には乗り気ではなかったといいます。
過去に2人の妻に寂しい思いをさせてしまったという負い目があったからかもしれません。

しかし一方で、糸は西郷の顔をうっとりと眺めていたということです^^。

ちなみに媒酌人は、薩摩の名称・小松帯刀でした。

 

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西郷隆盛と糸子の子どもは3人

糸子は西郷との間に、3人の子供を産みます。

寅太郎(とらたろう)・午次郎(ごじろう)・酉三(ゆうぞう)です。

 

長男・西郷寅太郎は陸軍大佐に

西郷寅太郎(引用:Wikipedia)

1877年西郷隆盛が戦死した後、一族は鹿児島で密かに暮らしていました。

1884年、18歳になった西郷寅太郎は、吉井友実勝海舟らも働きかけで、明治天皇の思召しから「ポツダム陸軍士官学校留学」を命ぜられ、13年のあいだドイツに留学します。

帰国後、陸軍戸山学校射撃科を経て1892年には陸軍少尉に任じられます。

また、1902年には父隆盛の維新の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員(侯爵議員)に就任します。

 

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愛加那の子も引き取り育てる

使用人や居候も含めると、10人を越える大家族の西郷家。

そこに嫁入りして切り盛りし、3人の子供たちを育てるのはさぞや大変なことだったでしょう。
愛する夫は、ほぼ家にいなかったからなおさらです。

 

しかし、糸子のスゴイのはここからです。
西郷の二番目の妻である奄美の愛加那の子・菊次郎菊草を養子として引き取ることになったのです。

糸は、二人の子をわが子のように扱い育て上げます。

 

さらに、西郷の死後も、糸は愛加那に生活費を送り続けたといいます。
なんと度量大きく、そして強く優しい女性だったのでしょう!

 

西郷と愛加那の子・菊次郎は京都市長に

西郷菊次郎(引用:Wikipedia)

西郷家に引き取られたのは、菊次郎が9歳のときでした。

その後、12歳にしてアメリカに留学。
留学を終え、17歳になった菊次郎、西南戦争では薩軍の一員として参戦します。
その際右足に銃弾を受け膝下を切断してしまいます。

 

その後、桐野利秋の計らいで他の負傷兵と共に軍より取り残される形となりました。
その際、そばに置かれ負傷した菊次郎を背負い、隆盛の弟・西郷従道のもとへつれかえったのが、長年西郷家で使用人を務めていた熊吉です。

 

西南戦争後、菊次郎は23歳で外務省に入ります。
そして明治20年には再びアメリカへ留学。

その後、日清戦争で日本が得た台湾で基隆支庁長、宜蘭長官(4年半)に就任。
日本に帰国した後、京都市長を約7年間務め、数々の功績をあげています。

 

倹約家でしっかり者の糸子

大家族の西郷家は、ドラマの中でも借金が減らないと家族が嘆く場面が登場します。

しかし実際の糸子は、倹約家でしっかり者。
自分を含めあれだけの大家族にも関わらず、なんと西郷家の借金を返済したのです!

また、料理上手、大変潔癖症であったとともいわれています。

いずれにしても、たぐいまれな良妻賢母であったようですね。

 

戊辰戦争から西南戦争へ

明治維新の功績をあげたヒーロー西郷隆盛は、1877年(明治10年)西南戦争・城山の戦いで敗北。
一気に逆賊へと転落してしまいます。

西郷の死後、糸は残された家族と共に気丈に生き抜いていきます。
親戚からの多額の香典も受け取らなかったというエピソードもあります。

これが意地なのか、それとも本当に生活に困っていなかったのか、真意はわかりません。

 

しかし、糸はその後もたくましく生きていきます。

家塾を開き、迎えた教師には月給を支払っていました。
もちろん、奄美大島の愛加那への仕送りも滞ることなく続けていたのです。

その後、息子の結婚をきっかけに上京し東京で暮らした糸。
晩年は次男の午次郎と暮らし、80歳でその生涯を終えました。

 

「こげなお人じゃなか!」この意味は?

西郷隆盛像(上野恩賜公園)

「西郷どん」の初回は、上野公園の西郷隆盛の銅像除幕式から始まります。

除幕式に出席していた、糸子が思わず放ってしまった言葉というのが、

「やどんし(主人)は、こげな人じゃなかったのに・・・」。

この言葉の真意は諸説あります。

 

本当に似ていなかった⁉
西郷隆盛は写真嫌いだったため、明確な西郷隆盛の姿が残されていません。
わたしたちがよく見る西郷隆盛の姿は、のちの人物が想像して描き上げたものです。
顔は兄弟や従弟の顔立ちから想像して描かれたようです。

こんなラフな格好をする人じゃなかった⁉
銅像の西郷隆盛は、浴衣姿で犬を連れているという、なんともラフなスタイルです。
しかし、実際の西郷隆盛は、人前ではもちろん家にいる時もきっちりと身なりを整えていたといいます。
また、西南戦争の際には司令官として軍事服姿に身を包んでいました。

上野の西郷像がラフな浴衣姿になった背景には、西南戦争により明治維新の立役者から一気に逆賊へと転換してしまったことにあるようです。
逆賊となってしまっては、軍服を着た銅像というのはちょっとまずいぞ・・・ということなのでしょう。

 

愛し慕い続けた「旦那さあ」の銅像です。
糸どんにしてみたら、きっちり身なりを整え威風堂々とした旦那様の姿を期待していたとしても不思議ではありませんね。

 

まとめ

ドラマで糸子を演じてる黒木華さん。
小柄でやさしい女性だが、心根はしっかり者でとてつもなく強い人物だということを見事に表現していると思います。

表舞台で活躍した歴史のヒーローたちの陰では、こういった女性たちがいたことを忘れてはいけませんね。

糸どんは、妻として母として一人の人間として、歴史の表舞台で戦い続ける西郷隆盛を支えるにふさわしい女性だったにちがいありません。

 

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