2018年 西郷どん

西郷どん錦戸亮演じる信吾の運命は⁉兄にも負けない西郷従道の凄い功績とは?

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大河ドラマ「西郷どん」で、錦戸亮さんが演じている西郷従道(じゅうどう/つぐみち)(信吾)。

激動の幕末から明治を生き抜いた従道は、あまりにも有名な兄・隆盛の影となりあまり語られることがありません。

「西郷どん」で西郷従道を演じている錦戸亮さんが、偉大な兄を持つ弟の苦悩を繊細に演じていますね♪

 

しかし!
「小西郷」と呼ばれた従道が「大西郷」と呼ばれた隆盛と比べ、劣っていのだと勘違いしてはいけません!

明治維新以降、従道が日本のためにどれほどの功績を残したかを見えばそれがよくわかります。
「大西郷」「小西郷」と呼んだ人たちにとって、隆盛と従道が同等の人物だったからにほかなりません。

 

この記事では、西郷隆盛の弟・西郷従道の生涯と功績をまとめています。

 

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西郷従道(信吾)の幼少期

西郷従道(引用:Wikipedia)

1843年、西郷従道は薩摩国鹿児島城下加治屋町に西郷吉兵衛の三男として生まれました。
幼名は竜助。

長男の西郷隆盛(吉之助)とは、実に15才も年が離れています。
両親がなくなったとき従道はまだ小さく、兄の隆盛は親のような存在だったはずです。

近所には大久保利通が住んでおり、従兄には大山巌がいます。

このように、のちの明治政府の重鎮たちに囲まれて育つ中で、彼らから影響を受け自然に薩摩隼人としての思想を身につけていったにちがいありません。

 

また、有村俊斎の推薦で、薩摩藩主・島津斉彬に出仕。
藩主の茶道を手伝う茶坊主として働きます。

大河ドラマ「西郷どん」に出てくる従道の幼少期は、残念ながら「隆盛には育てるべき幼い弟妹がたくさんいた」という程度に留まっています。

 

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血気盛ん過激派の青年期

1861年、18歳になった従道は還俗し、本名を隆興(通称・信吾)と改名します。

ドラマの中でなじみ深い「信吾~!」は、このときついた通称ということになります。
この時期から、錦戸亮さん演じる青年期の従道が登場します。

 

このころの従道は血気盛んで、若くして斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じます。

さらに精忠組内の尊王攘夷急進派である有馬新七らとともに過激派として、京都で幕府高官を襲撃し薩摩を否が応でも討幕に傾けようとしました。

 

ところが国父・島津久光がこれを弾圧。
こうして有名な寺田屋事件は、薩摩同士の斬り合いとなってしまったのです。

寺田屋事件のとき、信吾も過激派の一人として参加していました。
しかし、年が若かったこともあり、帰藩の上、謹慎処分となったのです。

 

薩英戦争が起こると謹慎処分も解かれ、信吾は決死隊に志願。
薩英戦争にも参加します。

この時の決死隊は、スイカ売りを装い外国船に乗り込んで切り殺そうという無謀な計画。
この計画は失敗に終わります。

このように過激派に身を投じていることから、従道の思想がいかに強硬なものだったかうかがえます。

 

偉大な兄への憧れと苦悩

「西郷どん」第22回。
サブタイトルは「偉大な兄 地ごろな弟」という回がありましたね。

ここでいう兄と弟とは、「島津斉彬(渡辺謙)と島津久光(青木通崇高)」「西郷吉之助と信吾」という2組の兄弟を表しているようです。

それぞれに偉大な兄を持つ弟の苦悩がうかがえました。

島津久光像

ただ、ここで確認しておかないといけないのは、西郷従道は決してドラマで描かれているようなダメな青年だったわけではないということです。
(それは島津久光に関してもそうですが・・;)

このサブタイトルからも思わず連想してしまいがちですが、「兄は偉大で弟は劣っている」といった誤解があってはいけないので!

この記事を読み進めていただければ、あっという間にそのような誤解が払しょくされますのでご安心くださいませ。

 

ようやく伏線となる「戦の鬼」

そしてもうひとつドラマの話を・・・

第34回「戦の鬼」という回がありました。

常に尊敬の念をもって、兄に従ってきた従道でしたが「おや?」という感情が芽生え始めます。

 

今まで仏のようだった兄が一転、鬼の形相で討幕ののろしをあげます。

そして刀をちらつかせ徳川慶喜を新政府から排除することに成功。

さらには、旧幕府側を焚きつけるための薩摩御用盗(江戸での治安悪化が目的)を組織しました。
史実には、放火だけでなく暴行・強盗・破壊行為と手段を選ばなかったといいます。

理解しがたい兄の豹変ぶりに戸惑いを隠せない従道は、
そんな兄に「戦の鬼じゃ」と言い放つわけです。

急に豹変してしまった吉之助に戸惑っているのは彼だけではありませんね。
信吾の存在は視聴者の強い味方です^^;

 

どちらにしてもドラマの中のこのやり取りが、のちに兄と弟がたどる運命の伏線になるのではと考えています。
(兄がここまで豹変する伏線が欲しかった・・・TT)

それはそれで、「こんな兄についていけない」といった極端な誤解を生まないことを祈りますが・・・。
特筆すべきは、従道は常に兄・隆盛に尊敬の念を抱いていたということです。

 

兄と共に戊辰戦争へ

西郷隆盛が2回目の島流しから戻ると、信吾は兄につき従い戊辰戦争にも参加します。

鳥羽・伏見の戦い(1868年)では、銃弾が体を貫通するほどの重傷を負いました。

その後、越後での戦いで、兄・吉二郎(「西郷どん」では渡部豪太さんが熱演)が戦死。
苦戦を聞いた信吾はすぐに越後に向かいますが、兄の死には間に合いませんでした。

 

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軍人としての大出世

1869年、従道は山形有朋と共に渡欧。
ヨーロッパ・ロシアの軍事や軍政の視察を行いました。

帰国した翌年には兵部権大丞(正六位)に任命されます。
さらに1871年には陸軍少将へとトントン拍子に出世します。

征韓論をめぐる兄との別れ

明治6年(1873年)、西郷隆盛は征韓論をめぐり盟友・大久保利通と対立。
隆盛は政府から退くことになります(明治六年政変)。

西郷隆盛を慕う薩摩藩出身者の多くは、隆盛と一緒に付いていきましたが、従道は政府に留まりました
一説には、隆盛が政府に留まるように助言したとも言われています。

明治7年(1874年)には陸軍中将となり、同年の台湾出兵では指揮をとり台湾征討を断行します。

 

西南戦争では兄と敵味方に

西南戦争(引用:Wikipedia)

明治10年(1877年)、西郷隆盛は西南戦争を起こします。

そのときも従道は隆盛に加担することなく、政府としての立場を貫きます。

戦争にはいかなかったまでも、九州へ出征した山県有朋の代理として陸軍卿代理に就任。
政府の留守を守りました。

兄・隆盛は西南戦争で戦死。
ショックを受けた従道は、自分も政府を去ろうと一時は決意したといいます。

従道に政府に残るよう説得したのは大久保利通でした。

これに応じ政府に残った従道は、薩摩閥の重鎮として君臨したのです。

 

西南戦争が終わった直後、近衛都督に任命されます。

1878年には大久保利通が暗殺されます。(紀尾井坂の変)
従道は兄同様、幼い頃から面倒を見てもらった大久保の死に大きなショックを受けたといいます。

 

明治政府の中心人物に

大久保利通が暗殺されると、従道らの次世代が政府の中心となっていきます。

従道は参議となり、さらに同年末には陸軍卿となりました。

このとき、共に活躍するのが大山巌です。
従道とは従兄関係にありました。

「明治十四年の政変」では、従道は伊藤博文とともに大隈重信に辞表提出を促しました。

また、明治17年(1884年)維新時の偉功によって伯爵を授けられることになりました。

1885年、甲申政変後の天津条約を結ぶ際には、伊藤博文らと清国へ渡りました。

 

初代海軍大臣に

内閣制度発足されると初代・海軍大臣となります。

このとき、のちに総理大臣となる山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢したのは、ほかならぬ西郷従道でした。

才能をいかんなく発揮した山本権兵衛は、日本海軍を日清・日露の戦勝に導きます。

また、のちにバルチック艦隊を破った東郷平八郎をリーダーとして育てたのが山本権兵衛でした。

西郷従道は人の才覚を見際める目もあったということですね。

政治的手腕も発揮します。

総理大臣も務めた伊藤博文らがロシアとの妥協策を探る中、日露戦争の前からロシアとの対立は避けられないことを、従道は察知していました。

このことから従道はイギリスとの同盟を主張したのです。

その結果 日露戦争ではイギリスは日本に対し好意的中立を保ち、軍事や経済的援助などで日本の勝利を助けとなったのです。

 

総理大臣候補に再三推された!

明治25年(1892年)には元老として枢密顧問官という役職につきます。

同年、品川弥二郎とともに国民協会を設立。

さらに明治27年に海軍大将にも任命され、翌年には侯爵に。
明治31年には海軍軍人として初めて元帥の称号を受けます。

その功績から内閣総理大臣候補に再三推されたといいます。

しかし兄・隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けました。

 

明治35年(1902年)、胃癌のため目黒の自邸で死去します。
59年の生涯でした。

 

リーダーシップは兄よりも長けていた!?

従道は信頼する部下に口は出さず、一切の実務仕事を任せたといいます。

自分は口は出さないが、失敗の責任は取るというスタンスを持った人物でした。

山本権兵衛が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷従道の度量の大きく懐の深い性格ゆえだとも言われています。

 

そんな従道でしたが、内務大臣在職中に起こった大津事件は違ったようです。

犯人の津田三蔵の死刑を主張し、大審院長の児島惟謙を恫喝するといった強い圧力をかけました。

しかし、これは津田を死刑にしなかった時のロシア帝国による日本本土攻撃、その結果日本の敗北・滅亡となる事を危惧した従道の憂国心ゆえの勇み足だったといわれています。

 

兄・隆盛は鳥羽伏見の戦いの際、前線に立って指揮をとることを望み出陣しました。
ところが藩主の島津忠義から戒められると、薩摩藩の本陣である東寺の五重塔の最上階から伏見の戦局を眺めたといいます。

これを考えた時、真にリーダーシップに長けていたのは、従道だったのではないかと思えてなりません。

 

まとめ

西郷従道は、明治維新以降、特に日本陸海軍の創設・増強には大きくに貢献しました。

その功績は兄・隆盛に負けず劣らずの素晴らしいものです。

従道は59歳もとき病気で亡くなりますが、幕末から明治までの日本の動乱をしっかりと見届けた人物だったのです。

西郷隆盛があまりにも有名なので、あまり表立って取り上げられることはない従道ですが、多くの功績から日本の戦争史を語る上でなくてはならない人物です。

 

大河ドラマ「西郷どん」では、おそらく従道の最後までは語られないと思います。

また、従道だけでなく、西郷隆盛の兄弟や子供にはその後政治の世界で活躍する人物もいます。

こういったところを深掘りしてみるのも歴史の面白さだったりしますね。

 

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