2019年 いだてん

【いだてん】永山絢斗演じる野口源三郎ってどんな人?日本体育教育の礎を築いたスポーツ万能男

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2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」。

第4話・・・
東京高等師範学校に通う主人公・金栗四三(中村勘九郎)を慕う後輩として、野口源三郎という青年が登場します。

演じているのは、連続テレビ小説「おひさま」や「べっぴんさん」にも出演していた永山絢斗さん。

 

野口源三郎は四三の背中を追い、自らも陸上選手とした活躍しました。
さらに、海外の体育教育を取り入れるなど、日本のスポーツ教育に大きな功績を残した偉大な人物です。

 

この記事では野口源三郎の生涯と、彼が日本のスポーツ界に残した功績をまとめています。

 

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野口源三郎の生涯

 

東京高師でマラソンと出会う

明治21(1888)年8月24日、野口源三郎は埼玉県榛沢郡横瀬村(深谷市)で丸橋栄三郎の長男とした生まれました。

源三郎が生まれて1年後、母親が死去。
わずか2歳で親戚である野口家に養子に出され、野口八重郎の三男となります。

 

農家の家で育った源三郎は、埼玉師範学校(現在の埼玉大学)に進学し、卒業後は一旦小学校の教師になります。

しかし、運動神経が良く体格にも恵まれていた野口は、当時の校長の勧めで学問の最高学府・東京高等師範学校(現在の筑波大学)へと進学します。

この時の先輩が金栗四三です。

 

東京高師では校長・嘉納治五郎がマラソンや水泳を取り入れていたことで、最初はマラソン選手として練習に励みます。

日本初のオリンピック出場をかけた予選競技会では、金栗四三、橋本三郎とともにマラソン競技に参加。
25マイルを走りきるものの、4位という成績で残念ながら代表選手になることはかないませんでした。

 

持ち前の運動神経で十種競技へ転向

マラソン競技からは退いた野口でしたが、ストックホルムオリンピックに出場した金栗四三に触発され、再び本格的に陸上競技を開始します。

その後、源三郎は次のベルリンオリンピックを目指しますが、第一次世界大戦により中止になってしまいます。

 

大正4年、東京高等師範学校を卒業した野口は、長野県松本中学校に教員として赴任します。

野口は松本中学校で体育の指導に当たる一方で、陸上部を発足。
コロンビア大学のコーチであるマーフェーの著書「陸上競技の練習法」を元にして指導を行います。

 

大正5年には、教えるだけではなく源三郎自身も十種競技を開始します。

十種競技に転向した野口は、万能な運動神経と高身長という利点が発揮され、大正6(1917)年には棒高跳びで日本記録を樹立します。

さらに第3回極東選手権大会の十種競技でも優勝しました。

 

アントワープオリンピックの選手となる

 

大正7(1918)年、嘉納治五郎の勧めで、東京高等師範学校で働きながら陸上競技を続けます。

そして、大正9(1920)年には、ベルギーで開催されるアントワープオリンピック十種競技で日本代表に選ばれ出場。
日本選手団の主将を務めました。

結果は12位と振るわなかったものの、世界レベルを目の当たりにすることができたことは、日本陸上界にとって大きな収穫となったのです。

 

体育教育とスポーツ普及に奔走

アントワープオリンピックに参加した野口はじめ選手団は、帰路を利用しアメリカ、イギリス、スウェーデン、ドイツ、フランスといったスポーツ先進国を視察します。

これによって野口は日本へ最新の陸上技術をもたらします。

また、指導方法を研究し、近代体育教育の礎を築いた野口は、大正15年の体育指導要領の改訂に貢献しました。

 

さらに大正10(1921)年、大日本体育協会の理事に就任します。
若手育成のため、全国の中学校を巡回し、陸上競技を通し、日本のスポーツ普及に奔走。

多くの選手を育成し、大正13(1924)年パリオリンピックでは、選手団監督を務めました。

 

教育者・研究者として生きた生涯

大正14(1925)年、東京高等師範学校の教授になります。

体育教師の育成にもあたり、学校体育教育や陸上競技の発展に貢献したことから、昭和8(1933)年、日本陸上連盟から「功労賞」第1号が授与されました。

 

戦後の昭和24(1949)年には、東京教育大学の教授に就任します。
昭和25年には日本初の体育学部長に、さらには昭和27年名誉教授に就任します。

 

また、埼玉大学の体育学部長や順天堂大学の教授も務め、その後も指導者・研究者として活躍し、日本の体育教育の発展に貢献しました

昭和42(1967)年3月16日、80歳でその生涯を終えます。

 

数々の功績による授章歴

野口源三郎の日本の体育教育の発展への功績が認められ、授章されたものがこちら。

  • 昭和8(1933)年、「功労賞」(日本陸上連盟)
  • 昭和35(1960)年、紫綬勲章
  • 昭和39(1964)年、勲三等瑞宝章

 

十種競技での活躍

野口は、山岡鉄舟の弟子である高野左三郎の教えを受け剣道4段、水泳では水府流水術初段、テニスの腕前もかなりといった、持ち前の運動神経、

さらに恵まれた体を持ち合わせ、マラソンから十種競技に転向し成績を残します。

十種競技とは・・・

  • 100メートル走
  • 400メートル走
  • 1500メートル走
  • 110メートルハードル
  • 走り幅跳び
  • 走り高跳び
  • 棒高跳び
  • 砲丸投げ
  • 円盤投げ
  • 槍投げ

一人でこれだけの競技を行い成績を残すのですから、運動神経はもちろん、体格や体力面でも相当秀でていたに違いありませんね。

 

空腹に耐えられない持病!?

野口源三郎は、大の甘い物好きで知られています。

野口はマラソンを走っている途中、空腹に耐えられず、レースの途中でも抜けて飲み食いしてしまうという癖に悩まされます。

 

ストックホルムオリンピック出場をかけた予選会で、野口が4位に終わった背景には、空腹に耐えられなくなり途中で駄菓子屋に飛び込みパンを盗み食いしようとして怒れるという出来事があったからだといわれています。

その失態を親戚が見ていたことで、野口はマラソンの禁止を言い渡されてしまったのだとか。

 

箱根駅伝のはじまり

大正8(1919)年、東京高等師範学校の教授だった野口は、金栗四三と明治大学の学生で長距離ランナーだった沢田栄一とともに、鴻巣小学校の審判に招かれます。

その帰り道の車中、金栗は後進を育てるための手段として駅伝が最適だと主張します。

 

そこで3人が企画したのが、なんと「アメリカ大陸マラソン」という途方もない企画でした。

アメリカ大陸を横断するとなると、山脈地帯や砂漠の中といった険しい道を走ることになります。

そこで、アメリカでの決勝を見据え、予選として企画されたのが山道を走る「箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)」でした。

 

残念ながら、アメリカ大陸横断マラソンは資金面で立ち消えになってしまいます。
その代わりに、箱根駅伝は現在も続いています。

 

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野口源三郎を演じる永山絢斗さんとは?

永山絢斗さんプロフィール

ながやま けんと

  • 生年月日:1989年3月7日
  • 東京都板橋区出身
  • 身長:176㎝
  • 血液型:B型
  • 著名な家族:瑛太

◆主な出演作品◆

映画
『ソラニン』
『ソフトボーイ』
『ふがいない僕は空を見た』

ドラマ
『おひさま』
『べっぴんさん』
『ドクターX~外科医・大門未知子~』

2010年初主演映画『ソフトボーイ』で、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞しています。

 

 

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まとめ

大河ドラマ『いだてん』の第4回「小便小僧」から登場する、永山絢斗さん演じる野口源三郎。

主人公・金栗四三を尊敬する後輩としてマラソンでオリンピックを目指すため、四三とともに「水抜き走法」「脂抜き走法」に取り組みます。

水分を一切取らず、とにかくたくさん汗をかいて体を軽くするという「脂抜き走法」は、今考えてみたらあまりに無謀で、それこそ死人が出てもおかしくないものですね。

のちに野口は空腹に耐えきれず、途中で食べてしまうという癖と言うよりは病気に近い症状に悩みます。
原因は明確ではありませんが、この「脂抜き走法」が原因だったとしても不思議ではありません。

 

このように、スポーツに関してあまりにも無知だった日本で、海外の最新の体育教育を取り入れるなど、野口源三郎が今の日本に残してくれた功績な多大なものです。

「いだてん」では、これら先人たちが尽力したスポーツの知られざる歴史を楽しく見ることができます。
今の恵まれた教育環境があることを感謝しつつ、今後の展開を楽しみに見ていきたいと思います^^

 

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