2024年度上期、新一万円紙幣の肖像になることが決定している「近代日本経済の父」渋沢栄一。
2021年NHK大河ドラマ第60作、俳優の吉沢亮さんが演じる『青天を衝け』の主人公として、今年注目の人物です!
名前は聞いたことあるけど、いったい何をした人なの?
という皆様も多いということで、今回は渋沢栄一の生涯と功績をまとめていきたいと思います。
渋沢栄一(しぶさわえいいち)という人物
◆生誕
1840年3月16日(天保11年2月13日)
武蔵国榛沢郡血洗島村
(現・埼玉県深谷市血洗島村)
◆死没
1931年11月11日(満91歳没)
東京府下北豊島郡滝野川村元西ヶ原(王子飛鳥山邸)
(現・東京都北区西ヶ原)
◆職業
幕臣、官僚、実業家、教育者
◆栄誉
正二位
勲一等旭日桐花大綬章
子爵
紺綬褒章
渋沢栄一って何した人?
それでは、渋沢栄一がどのような功績を残した人なのか、まとめていきたいと思います。
今では普通に私たちが関わっている日本の経済の歴史は、この渋沢栄一をおいて語ることはできない!
そんな凄い人ですよ^^
生誕
天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)
父・渋沢市郎右衛門元助(大河ドラマ『青天を衝け』では小林薫)母・エイ(『青天を衝け』では和久井映見)の長男として生まれました。
渋沢家は、畑作のほかに養蚕(ようさん)や藍玉の製造販売、米や麦の生産も行う豪農でした。
栄一は幼い頃からこの家業を手伝っていました。
14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、早くもその才覚を発揮します。
この少年期の経験から、後につながる経済への感覚が磨かれていきます。
また、父の教育方針により、武家の子と同じくらいの教養を身に付け、栄一が7歳になると、論語学者である従兄弟の尾高惇忠(『青天を衝け』では田辺誠一)ではのもとで本格的に学問を習います。
渋沢栄一が後年においても豊かな語彙力と表現力で知られるのも、幼少期のこの教育の賜物であろうと推測されます。
2021年NHK大河ドラマのタイトルにもなっている『青天を衝け』は、渋沢栄一本人が詠んだ漢詩の一節が元になっています。
「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」
(意味:「青空をつきさす勢いで肘をまくって登り、白雲をつきぬける気力で手に唾して進む」)
尊王攘夷の思想に目覚める
栄一19歳の時(1858年)、惇忠の妹・尾高千代(大河ドラマ『青天を衝け』では橋本愛)と結婚します。
その後文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる一方、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結びます。
その影響から栄一も尊皇攘夷の思想に目覚めます。
文久3年(1863年)には、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという大胆な計画をたてます。
しかし、あまりに過激な計画であったため、惇忠の弟・尾高長七郎(大河ドラマ『青天を衝け』では満島真之介)の懸命な説得により計画は中止となります。
尊攘派志士から幕臣へ
高崎城乗っ取り計画のわずか1年後(1864年)、父より勘当を受けた京都に出た栄一でしたが、「八月十八日の政変」直後であったため、勤皇派は凋落した京都での志士活動に行き詰まっていました。
このとき、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎(『青天を衝け』では堤真一)の推挙により、後に江戸幕府第15代将軍となる「一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)」(『青天を衝け』では草彅剛)に武士として仕えることとなります。
尊王攘夷派志士から幕臣という180度の転身ですが、これが渋沢栄一にとって未来への道を切り開く運命の決断でした。
1866年、主君の慶喜が15代将軍・徳川慶喜となったことに伴って栄一も幕臣となります。
パリ万国博覧会の視察
27歳のとき、慶喜の異母弟である徳川昭武に伴い「パリ万国博覧会使節団」の一員としてフランスへ渡ります。
さらにヨーロッパ各国を視察して回った栄一は、各地の先進的な産業や軍備、資本主義や独特の経済学といった、今まで見たことのない文明を目の当たりにし感銘を受けます。
この視察が栄一のその後に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。
ちなみにこの時に通訳として同行していたのは、シーボルトの長男アレクサンダーでした。
アレクサンダーとは帰国後もその交友は続き、のちに明治政府に勤めた渋沢栄一に対して、弟のハインリヒと共に日本赤十字社設立など協力をするようになります。
株式会社制度の実践から官僚へ
大蔵省時代の渋沢栄一(引用:Wikipedia)
帰国後、大政奉還により静岡に謹慎していた慶喜と面会。
静岡藩より出仕することを命ぜられるも、慶喜からは「これからはお前の道を行きなさい」と言われ、フランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの拝借金返済のため、1869年に静岡で商法会所を設立します。
ところがその年の10月には、大隈重信からの説得により大蔵省に入省。
大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わります。
1872年、渋沢栄一32歳のとき、紙幣寮の頭に就任します。
ドイツのゲルマン紙幣を取り扱ったものの贋札事件の発生も少なくなかったといいます。
その後、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立。
明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官します。
明治8年(1875年)には商法講習所(現在の一橋大学の源)を設立します。
実業家としての働き
栄一は退官後間もなく、第一国立銀行(のちの第一銀行ならびに第一勧業銀行、現・みずほ銀行)の頭取に就任し、実業界に身を置くことになります。
また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導しました。
さらに、銀行だけにとどまらず多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれています。
1887年頃、渋沢を慕う経営者などが組織した龍門社は、昭和初期には数千名の会員数を超えるほど大きなものになりました。
引退
晩年の渋沢を囲む家族(引用:Wikipedia)
1909年6月6日、70歳で財界引退を表明。
第一銀行・東京貯蓄銀行をのぞく61の会社役員を辞任します。
財界引退後には「渋沢同族株式会社」を創設しますが、これは死後の財産争いを防止するための便宜的なもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下(ほとんどの場合は数パーセントにも満たない)だったといわれています。
昭和6年(1931年) 死去。享年92。
渋沢栄一の主な功績
日本初の銀行を開業する
1873年6月11日、日本で初となる国立銀行が設立されました。
今では「みずほ銀行」でおなじみの、当時「第一国立銀行」と呼ばれたメガバンク。
この第一国立銀行を設立したのが渋沢栄一です。
官営銀行として低利の融資を行い、日本経済を支えてきた第一国立銀行のほか、栄一の指導により設立された多くの地方銀行。
日本が経済大国として外国と肩を並べるまでになった歴史を語る上で、渋沢栄一の功績が非常に大きかったことはいうまでもありません。
500もの企業の設立に携わった
生涯に「500」もの企業の設立に携わった実業家は、世界に目を向けても渋沢栄一しかいません。
しかもその企業がすごい!
東京瓦斯、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、王子製紙(現・王子製紙、日本製紙)、田園都市(現・東急)、秩父セメント(現・太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)、サッポロビール(現・サッポロホールディングス)、東洋紡績(現・東洋紡)、大日本製糖、明治製糖、澁澤倉庫など(引用:Wikipedia)
これが渋沢栄一が「近代日本経済の父」と呼ばれる所以です。
社会貢献活動
渋沢栄一は、実業界の中でも最も社会活動に熱心でした。
養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)院長
東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立
財団法人聖路加国際病院初代理事長
財団法人滝乃川学園初代理事長
YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長
大隈重信らとともに日印協会の設立(第3代会長)
関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長として寄付金集めなどに奔走しました。
震災復興院委員(引用:Wikipedia)
渋沢は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなりました。
大学の設立や教育事業
渋沢栄一は大学の創設や教育事業にも貢献をしています。
現・一橋大学の源となった商法講習所は、実業界で活躍する人材を要請するための日本初の教育機関でした。
その他にも・・・
大倉商業学校(現東京経済大学)設立に協力
高千穂学校(現高千穂大学)評議員
二松學舍(現二松學舍大学)第3代舎長
学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)設立・経営
同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏め
女子教育奨励会設立
日本女子大学校・東京女学館設立など。
私利と公益の調和「道徳経済合一説」を説いた
渋沢栄一が行動規範にしていたのは、孔子の「論語」でした。
「商売に学問は必要ない」とする考え方が一般的だった明治時代、
これからの時代、会社経営を成功させるためには経営者自身が人間として守るべき規範・基準をもっていなければならないと渋沢栄一は考えます。
著書『論語と算盤』では、「会社の利益を追求することと人としての道徳を重んじることのバランスがとれてこそ健全な社会である」という渋沢栄一の思想を説いています。
「自分よりも他人を優先し、社会の利益をいちばんに考える」「正しい方法をとることが豊かさへの道である」というこの思想は、時代を超えて現代の私たちがもう一度考えなければならない課題かもしれません。
渋沢栄一の名語録
「論語」に裏打ちされた渋沢栄一の明言は、現在を生きる私たちにも響く、力強い言葉が多くあります。
ほんの一部ですが紹介します。
「貯蓄とは、将来を楽しむため現在の享楽を犠牲にするものだ」
「社会のために尽くす者に対しては、天もまた恵みを与えてくれる」
「一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが、処世上の第一要件である」
「事業には信用が第一である。世間の信用を得るには、世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ」
「たとえその事業が微々たるものであろうと、自分の利益は少額であろうと、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで仕事にあたることができる」
「人は全て自主独立すべきものである。自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである」
「金儲けを品の悪いことのように考えるのは、根本的に間違っている。しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのもたしかである。金儲けにも品位を忘れぬようにしたい」
まとめ
2024年度発行予定の一万円札見本(引用:Wikipedia)
いかがでしたか?
2024年度40年ぶりに新しくなる一万円札・・・
「渋沢栄一?・・・だあれ?」と感じた皆様、渋沢栄一がどのような人物か、理解を深めていただけましたか?
渋沢栄一を知ると、新一万円札の顔としてこれほどふさわしい人はいないのではないか、という気さえしてきます^^
2021年NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、渋沢栄一の生涯を俳優の吉沢亮さんが演じます。
ドラマでは数々の功績もさることながら、資本主義経済の父としての渋沢栄一の思想がどのように描かれるのかが、ひとつの見どころとなりそうです。
楽しみに待ちましょう♪
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