2019年NHK大河ドラマ「いだてん」。
東京オリンピックを翌年にひかえ・・・
さて今年の金メダル候補は誰だ?
日本はいくつメダルを獲れるか?
東京オリンピックの経済効果はいかほど???
数十年に一度あるかないかの母国開催のビックイベントに、多少なりとも心躍りますよね^^。
しかし、日本がメダルの数を世界の国々と競うまでになり、夏のオリンピックでは二回目となる東京オリンピック開催にまで至った背景には、明治から大正・昭和にかけての日本スポーツの目覚ましい発展があります。
そして、この日本のスポーツ界の礎を築いてこられたのが、今回大河ドラマ「いだてん」で主人公となる金栗四三さんです。
日本のオリンピックの歴史を大河ドラマ「いだてん」を通して学ぶ、知られざる日本のオリンピックの歴史。
もしかしたら、翌年に開かれる東京オリンピックの味方も変わってくるかもしれませんね。
この記事では、「いだてん」主人公である日本人で始めてオリンピックに参加した金栗四三(中村勘九郎さん演)さんとはどのような人物なのかをまとめています。
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この記事の内容
2019年大河ドラマ「いだてん」基本情報
引用:https://natalie.mu
2019年 大河ドラマ(第58作)
「いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~」
- 放送予定:2019年1月より(全47回)
- 作:宮藤官九郎
- 音楽:大友良英
- 題字:横尾忠則
- 制作統括:訓覇 圭、清水拓哉
- プロデューサー:岡本伸三、吉岡和彦(プロモーション)
- 演出:井上 剛、西村武五郎、一木正恵、大根 仁
- 出演:中村勘九郎、阿部サダヲ、綾瀬はるか、生田斗真ほか。
◆ストーリー◆
“オリンピックに初参加した男”金栗四三(かなくり・しそう)と、“オリンピックを呼んだ男”田畑政治(たばた・まさじ)。
2人の主人公を中心に描かれる“知られざるオリンピックの歴史”!初めて夏季オリンピックに参加した1912年のストックホルム大会から1936年のベルリン大会、そして1964年の東京大会開催までの52年間を3部構成で、主人公である金栗四三と田畑政治のリレー形式で描かれます。
戦争、復興、そして…平和への祈り。
オリンピックには、 私たちの知らない人々の“泣き笑い”の歴史が刻まれています。
マラソンの父・金栗四三の生涯
引用:Wikipedia
それでは2019年大河ドラマ「いだてん」の主人公の一人、
日本のマラソンとスポーツの発展に大きな功績を残した、金栗四三さんの92年の生涯をまとめていきたいと思います。
生誕から青年期~マラソンとの出会い
◆1891年(明治24年)8月20日、玉名市春富村(旧三加和町、現和水町)で造り酒屋を営む父信彦・母シエの間に8人兄弟の7番目として金栗四三さんは誕生しました。
◆1901年(明治34年)吉地尋常小学校(現和水町春富小学校)を卒業し、玉名北高等小学校(現南関町)に入学します。この時、家から学校までの往復12キロの道のりを、毎日走って通学したのだとか。
のちに金栗さんは当時を振り返り、以下のように語っています。
「マラソンを走るようになったのは、いつの頃からですか?
と、よく聞かれますが、東京高等師範の2年生の時からです。
その基礎を作ったのは、高等小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います」
もともと体が丈夫なほうではなかったといいます。
にもかかわらず若干10歳で往復12キロをほぼ毎日走っていたわけですから、本人も無意識のうちにかなり鍛えられていたんでしょうね。
◆1905年(明治38年)玉名中学校(現玉名高校)に進学します。
学校では敷地内の寄宿舎(玉名郡弥富村、現玉名市中)で生活を始めます。
また、学業もクラスで1、2番と優秀で、特待生として授業料免除を受けていたといいます。
玉名中学校の頃の四三少年
◆1910年(明治43年)東京高等師範学校(元:筑波大学)に入学します。
この時の校長・嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)によって、マラソンの才能を見出されます。
その後、力をつけていき、翌々年にはオリンピックに出場するまでに成長をとげます。
本格的にマラソンをはじめて1~2年のことですから驚きですね。
ちなみに大河ドラマ「いだてん」では、役所広司さんが金栗さんの恩師・嘉納治五郎さんを演じています。
マラソン足袋でオリンピック出場へ
ストックホルムオリンピックでプラカードを持つ金栗さん
◆1911年(明治44年)、翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けた予選会に出場します。
マラソン足袋で出場した金栗さんは、なんと当時の世界記録を27分も縮める大記録!
見事、日本人初のオリンピック選手となります。
この時出場したのは金栗さんのほかに、短距離走の三島弥彦さんがいました。
大河ドラマでは、生田斗真さんが演じています。
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◆1912年(明治45年)ストックホルムオリンピックに出場します。
金栗さんの結果は・・・
レース途中、暑さのあまり日射病で意識を失って倒れてしまいます。
26.7キロ地点、金栗さんは近くの農家で介抱され、目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝だったといいます。
金栗さんはレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国しました。
記念すべき日本初のオリンピック選手となった金栗さんでしたが、当時の日本にとってオリンピックはまだ未知の世界でした。
スウェーデンまでは船と鉄道で20日間。
初の海外渡航で体への負担は相当なものだったでしょう。
さらにオリンピック開催時期のスウェーデンはほぼ白夜という日本人には不慣れな環境で、睡眠にも障害がありました。
食事の面でも苦労されています。
当時スウェーデンには「お米」というものがありませんでした。
予算の都合もあり、関係者全員分の食料を持参することができなかったため、慣れない現地の食事を摂るしかありませんでした。
しかも試合当日には、金栗さんを迎えにくるはずだった車がこず、競技場までの道のりを結局歩いたといいます。
追い打ちをかけるように、この日の最高気温40℃という暑さが襲います。
スウェーデンで40℃というのは記録的な高い気温です。
棄権したのは金栗さんだけではなく、参加者68名中およそ半分がこの暑さによって途中棄権しました。
中にはレース中に倒れ翌日死亡した選手まで出てしまったのです。
金栗さんにとっても日本にとっても、環境や食事面とさまざまな原因が重なり残念な結果となってしまいました。
オリンピック参加が初めてだった日本には、スケジュール管理や選手の体調管理等に関するノウハウがあまりにもなかったのです。
当時の金栗さんの日記の一部が新聞に掲載されました。
「大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重圧を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」
金栗四三、ストックホルム・マラソン翌日(7月15日)の日記より
この時の金栗さんの無念は計り知れませんが、間違いなく金栗さんがのちの日本のマラソン界スポーツ界の礎となりえた貴重な出来事だったでしょう。
ちなみに、金栗さんの正式なレース棄権の届けが本部に届いていなかったため、スウェーデンでは「消えた日本人」「消えたオリンピック走者」として語られることになりました。
教鞭をとりながら自らも走りに磨きをかける
◆1914年(大正3年)東京高等師範を卒業し研究科へ進みます。
金栗さん22才のとき、玉名郡小田村(現玉名市上小田)池部家の養子となります。
この年の4月10日、石貫村(現玉名市)の医者の娘だった春野スヤさんと結婚します。
大河ドラマ「いだてん」では春野スヤさんを綾瀬はるかさんが演じていますね。
ドラマの中では幼なじみという設定になっています。
引用:https://www.city.tamana.lg.jp/
(左がスヤ、右が四三、真ん中(前)が幾江、真ん中(後ろ)スヤの弟)
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その後、東京府女子師範学校などで地理の教師として教壇に立ちます。
それと同時に金栗さん自身も、さらに走りに磨きをかけるためマラソンに打ち込みます。
またも無念!ベルリンオリンピックの中止
◆1916年(大正5年)挽回を期したベルリンオリンピックへの参加が決まっていました。
この頃の金栗さんはランナーとして最も脂ののった時期!
本人としても当然4年前のリベンジをと願っていたでしょうし、周囲からもメダルを期待されていました。
ところが第一次世界大戦が勃発。
ベルリンオリンピックの開催が中止となってしまうのです。
駅伝への参加
◆1917年(大正6年)東海道駅伝徒歩競走で関東組のアンカーとして走ります。
これが駅伝の始まりとされています。
◆1920年(大正9年)には第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(現在の箱根駅伝)が開催されます。
金栗さんもこの大会開催のために尽力しています。
アントワープ~パリオリンピック
◆1920年(大正9年)アントワープオリンピックに参加します。
膝に痛みを抱えたまま完走はしたものの、結果は16位でした。
◆1921年(大正10年)東京府女子師範学校に奉職します。
初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催、大正12年には関東女子体育連盟を結成するなど、女子体育の振興に力をいれていきました。
◆1924年(大正13年)パリオリンピックは金栗さんにとって3度目(本当は4度目になるはずでした)の参加となりました。
このときの金栗さんは33才。
残念ながらランナーとしての円熟期は過ぎていました。
結果はあえなく途中棄権となり、悲運のオリンピックランナーとして語り継がれることとなります。
引退後はマラソン普及と東京オリンピック準備へ
◆1931年(昭和6年)故郷である玉名(現玉名市上小田)に帰郷します。
ここでは学校対抗マラソン大会や駅伝競走など、熊本県内外においてマラソン普及に努めます
◆1936年(昭和11年)日本での初オリンピック準備のため再び上京。
東京オリンピック開催に向け奔走します。
尽力の甲斐があり、昭和13年第12回オリンピック東京大会の返上決定しました。
熊本のスポーツ発展に取り組む
◆1945年(昭和20年)再び帰郷。
熊本県体育会(後の熊本県体育協会)を立ち上げ初代会長に就任します。
第1回県民体育祭、第1回金栗賞朝日マラソン(昭和49年には福岡国際マラソン選手権大会となりました)を開催するなど、熊本のスポーツ発展に尽力します。
◆1949年(昭和24年)西部マラソン20キロ大会(後の金栗杯玉名ハーフマラソン大会)等開催。
◆1959年(昭和35年)第15回国体が熊本で開催され、最終聖火ランナーとして走りました。
◆1955年(昭和30年)玉名市市制施行祝賀式典において文化功労者として表彰されました。
◆1961年(昭和37年)玉名市の名誉市民第1号に選ばれました。
55年目のゴールイン!
◆1967年(昭和42年)3月、金栗さんの元に、スウェーデンのオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典への招待状が届きました。
ストックホルムオリンピックでは「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた金栗さん。
オリンピック委員会が当時の記録を調べているときに気付き、金栗さんを記念式典でゴールさせるという提案をしたのです。
招待を受けストックホルムへ赴いた金栗さんは、競技場をゆっくりと走り用意されたゴールテープを切ったのでした!
この時のアナウンスがこちら・・・
「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」
ゴール後、金栗さんは「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしました。
笑顔でゴールテープを切る金栗さん
ちなみに、ストックホルムオリンピックから100年を経た2012年。
金栗さんのひ孫さんが、当時レース中に倒れた金栗さんを介抱した農家の子孫を訪ねています。
大きな功績を残した92年の生涯
◆1983年(昭和58年)11月13日死去。
晩年は玉名市で過ごした金栗さん。
日本のマラソンとスポーツ発展に、大きな功績を残した92歳の生涯でした。
受け継がれる金栗さんの功績
県立玉名高校銅像の除幕式に出席した金栗さん
(引用:玉名市ホームページ)
金栗四三の功績を記念した「金栗四三杯」。
その他にも、金栗さんに由来した多くの大会が今でも開催されています。
◆富士登山駅伝「金栗四三杯」
一般の部の優勝チーム
◆箱根駅伝「金栗四三杯」
最優秀選手
◆「金栗記念選抜中・長距離熊本大会」
◆「金栗杯玉名ハーフマラソン大会」
◆「KK ウィング」(熊本県民総合運動公園陸上競技場の愛称)金栗さんの名前に由来。
◆1969年(昭和44年)金栗さんが卒業した(熊本県立玉名高等学校)旧制玉名中学に銅像が設置されました。生前だったため除幕式にはご本人も出席されました。
また、2018年(平成30年)11月、九州新幹線新玉名駅の駅前広場にも銅像が設置されました。
マラソン足袋「金栗足袋」の開発
金栗さんがオリンピックを目指した当時は、現在のような運動靴は存在しませんでした。
地下足袋のような履物で走っていたのです。
金栗さんはストックホルムオリンピック出場後、外国人が履いていたゴム底のシューズをヒントに「金栗足袋」を開発。
東京の足袋屋ハリマヤの黒板辛作とともに足袋の改良に取り組み、ハゼ(留め金具)をやめ、甲にヒモが付いた型へと変わっていきました。
ストックホルムで見た多くの日本のマラソン選手が「金栗足袋」を履いて走りました。
「いだてん」ではハリマヤの黒板辛作を、ピエール瀧さんが演じています。
ピエール瀧さんと言えば、足袋屋がマラソンシューズに挑むという池井戸潤原作ドラマ「陸王」に出演されていましたね。
この時は大手シューズメーカーの営業部長で足袋問屋こはぜ屋のにっくきライバルでしたが、今回は足袋屋さんです^^
女性スポーツの振興に貢献
3度のオリンピックで世界の壁の高さを目の当たりにした金栗さんは、日本にスポーツを広めていかなければならないと考えます。
特に女性のスポーツは、女性の参加が盛んなヨーロッパでの光景に感銘を受けました。
当時の日本は、「女性がスポーツをすることなどもってのほか」といった風潮があったからです。
金栗さんは、将来母となる女学生の心身を鍛えることが日本にとって大変重要であることを指摘しました。
東京府女子師範学校では、初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催。
大正12年には関東女子体育連盟を結成します。
「体力、気力、努力」
金栗さんが残した有名な言葉に、「体力、気力、努力」があります。
正真正銘、この3つを自ら実行した金栗さんの92年の人生。
不運のランナーと言われメダルこそありませんが、その後日本のマラソン業界スポーツ界に与えた影響の大きさを考えたら、メダルさえも小さなものに思えてしまいます。
今でも様々なマラソン大会で金栗さんの功績を見ることができます。
国民の誰もが知っている毎年恒例お正月の箱根駅伝は、金栗さんの尽力によって始まったものです。
今でこそ世界と肩を並べて戦うことができるようになった日本のスポーツの発展の影に、人生をかけて尽力した人たちがいるということを忘れてはいけませんね。
歴史を作った先人たちに心から敬意を表し、2020年東京オリンピックを間近で体感できる幸せに感謝したいと思います^^
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